PUMAGTOからランエボへ!90年代の最速重戦車がGT-Rに挑んだ挑戦と、そのDNAが繋がる進化
1990年代の国内耐久レース界を席巻した三菱GTO。スカイラインGT-Rが全盛を誇る中、ヘビー級ながらも果敢に挑んだその姿は、多くのファンを魅了しました。その開発秘話と、後のランサーエボリューションへと繋がる三菱のバトンを、当時のドライバー中谷明彦氏が振り返ります。
GTOが異質な存在だったN1耐久レース
スーパーN1耐久(現スーパー耐久)は、市販車をベースとした車両が競うレース。その最高峰カテゴリにおいて、三菱GTOは3LV6ツインターボ、フルタイム4WD、4WSというハイテク装備を搭載した異彩を放っていました。同時期にはGT-RやNSXといった国産スーパースポーツが成熟期を迎えていましたが、GTOはその中でも最も重量が重く、複雑な駆動システムを持つというハンデを抱えていました。
デビュー戦から見えたGTOの可能性
1994年後半、菅生戦でGTOがN1耐久レースにデビュー。R32/R33型GT-Rがひしめくクラス1において、なんと4位でフィニッシュしました。重量、冷却、駆動系レイアウトといった複数の不利な条件を抱えながらも、GTOが秘めた可能性を示す結果となりました。この走りをきっかけに、三菱ラリーアートは1995年からGTOによるフル参戦体制を整え、さらなる開発に力を注ぎます。
鮮やかなグリーンとPUMAの意外な関係
GTOの外装を彩った鮮やかなグリーンは、実は三菱重工サッカーチーム(現浦和レッズ)のユニフォームを提供していたスポンサー企業PUMAとの関係から生まれました。PUMAの意向でレーシングシューズのデザインにも関わり、ピレリP7タイヤのトレッドパターンを模したソールを採用するなど、細部にまでこだわりが光りました。
市販車規則の限界に挑んだ開発
N1耐久レースの規則は非常に厳しく、エンジン外観の完全ノーマル維持、吸排気系の変更禁止、ボディ形状の変更禁止など、改造範囲は限定的でした。しかし、三菱はロールケージや安全装備の追加、ブレーキパッドの材質変更といった範囲内で、GTOの性能を最大限に引き出すための徹底的な開発を行いました。常識にとらわれない発想と、市販車規則の限界を突き詰める姿勢が、GTOの強さの秘訣でした。
GTOが残した足跡は、後のランサーエボリューションへと繋がっていきます。耐久レースで培われた技術と経験は、ランサーエボリューションの開発に活かされ、三菱のラリーDNAをさらに進化させていくことになります。
コメント一覧
まだコメントはありません。
← トップに戻る