北京五輪の金メダリストが語る…消えた逸材、ニコラス・パレハの波乱の人生
かつてアルゼンチンの将来を嘱望されたDFニコラス・パレハ。北京オリンピックの金メダル獲得に貢献したにも関わらず、その後のキャリアは怪我との闘いと、期待されたスターダムへの到達を阻む様々な壁に阻まれました。今回は、その波乱に満ちた人生を振り返ります。
北京五輪での輝かしい活躍
2008年の北京オリンピック。アルゼンチン代表は、クラブ側の都合で主力選手が参加できないという苦境に立たされました。そんな中、オーバーエイジ(OA)枠で招集されたのがニコラス・パレハでした。デミチェリスやブルディッソといった実力者の穴を埋め、チームの勝利に大きく貢献し、見事金メダルを獲得しました。
中村俊輔とのFK対決
北京五輪での活躍をきっかけに注目を集めたパレハは、2008年8月にエスパニョールへ移籍。しかし、そのポジションを脅かしたのは、同じくエスパニョールに加入した中村俊輔でした。パレハは移籍当初、FKのキッカーを担当していましたが、中村俊輔の加入により、その座を奪われることになります。中村俊輔の技巧派で“柔”のFKに対し、パレハはコースが甘いものの、パワーのある“剛”のFKを武器にしていました。
怪我と挫折の連続
2010年にロシアのスパルタク・モスクワへ移籍したパレハですが、ここからが苦難の始まりでした。怪我の影響で出場機会は限られ、60試合の出場でわずか3得点という結果に終わります。2014年にセビージャへ完全移籍するも、2014/15シーズン終盤に前十字靭帯断裂という大怪我を負い、長期間の離脱を余儀なくされます。
引退という決断
セビージャでは121試合に出場しましたが、怪我の多さが響き、出場機会は減少。その後、メキシコのアトラス、インドのケーララ・ブラスターズFCへ移籍しましたが、2020年11月に現役引退を決意しました。北京五輪で金メダルを獲得したという輝かしい実績を持ちながらも、怪我に苦しみ、A代表での活躍はフレンドリーマッチ1試合に終わるという、惜しまれる結果となりました。
パレハのキャリアは、才能が開花する前に、怪我という大きな壁に阻まれた典型的な例と言えるでしょう。彼の経験は、サッカー選手のキャリアがいかに脆く、予測不可能なものであるかを物語っています。