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81年前の悲劇を胸に…「学校に行ける」と騙された少女の80年ぶりの訪日東南海地震で散った友の痕跡を求めて

投稿日:2025年12月06日

14歳で騙された少女の運命:故郷を離れ、日本での過酷な日々

1944年、まだ14歳だったチョン・シニョンさん(95)は、故郷の羅州(ナジュ)で「日本に行けば学校にも行けるし、お金も稼げる」という甘い言葉に誘われました。しかし、それは大きな嘘でした。村の区長と日本人教師に騙され、彼女が向かったのは愛知県の三菱重工名古屋航空機製作所。そこには学校も賃金もなく、過酷な強制労働が待っていたのです。
アルミニウムの板を運んだり、工場の掃除をしたりと、幼い少女には重すぎる労役が続きました。共に羅州から動員された24人の少女たちの中には、現在も訴訟を続けているヤン・クムドクさんもいました。彼女たちは故郷への希望を胸に日本へと渡ったにも関わらず、ただひたすら働かされる日々を送ったのです。

突然の悲劇:東南海地震、そして友との永遠の別れ

希望を打ち砕かれ、ただ生きるために働いていたチョンさんたちを、さらなる悲劇が襲います。1944年12月7日、未明に発生した東南海地震です。激しい揺れが工場を襲い、多くの建物が崩壊しました。チョンさんは間一髪で難を逃れたものの、目の前で6人の友人たちががれきの下敷きとなり、命を落としました。
「地震当時の恐怖と爆撃機のごう音は今も忘れられない」と語るチョンさん。故郷の全羅南道(チョルラナムド)出身の友人、ソ・ボギョンさん、オ・ギレさん、キム・ヒャンナムさん、チェ・ジョンレさん、キム・スンレさん、イ・ジョンスクさん。彼女たちの無念の死は、チョンさんの心に深く刻み込まれました。賃金も支払われることなく、解放後の1945年10月にようやく故郷へ帰ることができましたが、心には深い傷を負ったままでした。

80年間背負い続けた沈黙:語られなかった真実と、勇気ある告白

帰国後も、チョンさんの苦しみは終わりませんでした。「日本に行ってきたと言うと嫁に行けないかもしれない」という世間の偏見から、彼女は過去を語ることができませんでした。唯一持っていた記念写真さえも破り捨て、その体験を胸の奥に封じ込めて生きてきたのです。それは約80年間にも及ぶ長い沈黙でした。
しかし、転機が訪れます。ヤン・クムドクさんが三菱重工を相手に訴訟を起こしたという報道を目にしたチョンさんは、自らの体験を語ることを決意します。2017年、娘さんと共に市民団体を訪れ、被害を証言。そして2020年には、自身も三菱重工を相手取って損害賠償請求訴訟を起こしました。

わずか931ウォン…日本年金機構の対応と、諦めない闘い

訴訟の過程では、さらなる困難が待ち受けていました。被害を証明するため、当時の厚生年金加入状況を照会したところ、日本年金機構は当初「記録がない」と回答。しかし、日本の国会議員や市民団体の働きかけにより、ようやく加入が認められました。
そして2022年8月、チョンさんの口座に脱退手当として振り込まれたのは、なんと韓国ウォンで「931ウォン」(約100円)というあまりにもわずかな金額でした。この対応はチョンさんへの侮辱とも取れるものでしたが、彼女は決して諦めませんでした。昨年1月の一審では勝訴を勝ち取り、「亡くなった友人たちに対する道理」と語りました。しかし、三菱重工は控訴。現在も裁判は続いています。

「せめて死んだ友の痕跡を」80年ぶりの日本へ、そして未来へ

そして今、チョンさんは80年ぶりに日本を訪れます。杖をついてやっと動ける体ながら、「死ぬ前に、せめてあの時に無念に死んでいった友の痕跡を探したい」という切なる願いを胸に、名古屋の地を踏みます。
今回の訪問では、7日に名古屋で開催される「東南海地震犠牲者追悼式」に出席し、友人の魂を慰めます。また、彼女の訴訟を支援する現地の市民団体、高橋信代表との面会も予定されています。日本の市民団体は、1988年から旧三菱重工の敷地内に「東南海地震犠牲者追悼碑」を建立し、「悲しみを繰り返さぬようここに真実を刻む」というメッセージを刻んできました。チョンさんの今回の訪日は、過去の悲劇を忘れず、真実を語り継ぐことの重要性を私たちに改めて問いかけています。歴史の教訓を未来へ繋ぎ、二度と同じ過ちを繰り返さないために、彼女の声に耳を傾けましょう。

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