東京の路面電車「玉電・砧線」の面影を辿る2kmの廃線ウォーク
かつて渋谷から二子玉川、砧を結んでいた路面電車「玉電」の支線、砧線。1969年に廃止されてから50年以上が経過し、その面影は薄れつつあります。今回は、二子玉川から砧までの2kmの廃線跡を歩き、当時の記憶を辿る旅に出かけましょう。
玉電の記憶と「花みず木通り」
「玉電」という愛称は、今ではあまり耳にしませんが、かつてこの地域の人々にとっては生活の一部でした。昔住んでいた蕎麦屋の出前メニューにも「玉電山下」と書かれていたというエピソードも。しかし、「玉川線」の名も地下鉄・新玉川線へと引き継がれ、さらに田園都市線に編入されたことで、「玉川」という名前自体が消滅してしまいました。
砧線の廃線跡は、二子玉川駅から田園都市線と並走し、雑木林の中を抜けると、玉川高島屋SC東館と同館駐車場へと変わっています。しかし、その先には「花みず木通り」という、砧線跡を偲ばせる道が残っています。
砧線跡を歩く
「花みず木通り」は全長760m。この道路は、廃線時に線路敷のほとんどを民間に売却せず、東京都や世田谷区へ一括して移管したことが整備された理由の一つです。通りを進むと、国道246号線の新道バイパスをくぐり、道幅が広がり、歩道と車道に分離されます。
「中耕地駅跡」の石碑
しばらく歩くと、中耕地駅があった路地に出ます。歩道の隅には「砧線中耕地駅跡」と刻まれた石碑が建てられています。この駅は1969年5月10日まで存在し、開業当初は「遊園地下」という名前でした。これは、近くにあった玉川第一遊園(現在の世田谷区瀬田にある身延山関東別院、妙隆山・玉川寺周辺)へのアクセスを目的としたものでした。
当時の図面には、距離がマイルチェーンで記載されており、イギリスの技法を取り入れていた日本の鉄道の歴史を垣間見ることができます。駅周辺には水田が広がっていたことも、地図から読み取れます。
玉電の面影を辿るこの旅は、単なる廃線跡巡りではなく、二子玉川や砧の歴史、そして人々の記憶を振り返る機会となるでしょう。
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