鈴木長崎市長の母・智子さん、92歳で逝去 原爆投下日に生まれた悲劇、平和への願い継ぐ
長崎市の鈴木史朗市長の母、鈴木智子さんが12日、92歳で亡くなりました。智子さんは1945年8月9日、原爆が投下された日に12歳の誕生日を迎えていました。お赤飯を炊いている最中に被爆したという、忘れられない記憶と、平和への強い願いを生涯にわたって伝えてきた智子さんの生涯を振り返ります。
8月9日、誕生日と被爆の重なる日
鈴木市長にとって、8月9日は特別な日でした。それは、母親である智子さんの誕生日であると同時に、原爆の悲劇が刻まれた日でもあったからです。
鈴木史朗市長:「8月9日は私の母の誕生日でもあります。母の誕生日でありながら、母の誕生日を祝えない、そういう8月9日をずっと過ごして参りました」
「ピカッ」とした瞬間、そして家族への想い
智子さんが被爆した当時、家族は長崎市本紺屋町(現・中央公園前)に住んでいました。原爆投下目標だった「常盤橋」のすぐ近くです。誕生日の朝には、母親がお赤飯を炊いてくれており、その香りが家中に漂っていました。
鈴木智子さん(89):「たまたま私のお誕生日だったので(朝から)小豆ご飯を母が炊いてくれていた」
智子さんは、「ピカッ」とした光とともに、本棚が倒れてくるのを感じました。もう少し違う場所に寝ていたら、本棚の下敷きになっていたかもしれないと言います。当時、市長だった父・田川務氏(後に長崎市長)は、風頭の方へ逃げるよう言い残し、三菱兵器大橋工場に学徒動員されていた長女・恵子さんを探しに浦上へと向かいました。
被爆三世代、平和への祈り
智子さんは、被爆者として、そして被爆二世の母として、平和への願いを強く訴え続けてきました。鈴木市長は、智子さんの被爆体験を「平和行政の原点」と語り、親子三代にわたる祈りを継承していく決意を新たにしています。
智子さんの92年の生涯は、原爆の悲劇を忘れず、平和な世界を築いていくことの重要性を私たちに教えてくれます。8月9日という特別な日を、改めて平和への誓いを新たにする日として、心に刻みましょう。